マカオについては、沢木耕太郎がその名作『深夜特急』シリーズで残しています。
この作品は、彼が1970年代に行ったアジアからヨーロッパへの旅をもとに執筆されています。この中でマカオに触れたのは、1973年ごろの旅の記録に基づいています。実際に執筆されたのは1980年代で、『深夜特急』の第2巻「マレー半島・シンガポール」の一部としてマカオのエピソードが収録されています。
当時のマカオは、ポルトガルの植民地であり、今のような統合型リゾート都市ではなく、素朴な街並みとカジノ文化が独特の雰囲気を醸し出していました。沢木耕太郎は、マカオの小さなカジノや街の佇まいに触れながら、そこで感じた旅の自由や異国情緒を描写しています。
『深夜特急』が1986年から刊行された後、多くの読者に影響を与え、マカオを旅するきっかけとなった人も少なくありません。その後、返還を経て現代のマカオは大きく変貌を遂げましたが、沢木耕太郎が描いたマカオのエピソードは、旅人にとってのノスタルジックな魅力を持ち続けています。
私がマカオのことを知ったのは、「深夜特急」ではなく、「波の音が消えるまで」でした。ずいぶん後に再訪したマカオの変貌ぶりについて書いておられたような気がしますが、もともとの深夜特急を知らないので、今度ぜひ読んでみたいです。
私は、この小説でカジノのことや「大小」を知りました。ご承知のとおり、日本にカジノはなく、賭博行為は法律で禁止されていますので、自分には縁がない世界だとずっと思っていました。
しかし、以前、シンガポールのマリーナベイサンズに泊まった際、カジノに行ってみたかったのに行けなかった思いがあったのは事実で、それがずっと記憶に残っていて、前回マカオを訪れた時にはおっかなびっくりのぞいてみたのです。
私は、コタイの「ベネチアンマカオ」のカジノに入りました。ここはホテルエントランスのすぐにカジノの入り口があり、とても分かりやすい場所でした。
カジノ入り口には黒服のガードマンが立っていてちょっと怖かったのですが、パスポートを見せることもなく、荷物の簡単な検査をすると普通には入れてちょっと拍子抜けしました。たしか、私が行った当時、マリーナベイサンズは外国人でないとカジノを利用できなかったと思いました。
中はざわざわとしてたくさんの卓が設けてあり、どこもたくさんの人だかりがしていました。こう言っては失礼ですが、本当に普通の恰好をした「近所のおばちゃん」のような人がわいわいと話しながら興じている様子は、私が、例えば映画「レインマン」で見て想像していたカジノの雰囲気とはずいぶん違い、ドレスやタキシードを着ているような人は全然見当たりません。このカジノでは「大小」が多くプレイされているようでした。もちろん、ルールがよくわからないので卓に座るようなことはせず、人の肩越しにプレイを眺めていました。
それでも、だんだん、欲というか「せっかく来たのだから」「日本ではできないから」という気持ちがむくむくと湧き出し、帰国の前日、とうとう私は「大小」の一人プレイ用台を見つけ、やってみることにしたのです。このカジノでは香港ドルしか使えませんでした。私は初日にマカオパタカと香港ドルの両方を両替で持っていたので、100ドルだけやってみることにしました。次に出る数字が11から17なら大、それ以下なら小というのが一番初歩的な賭け方だったと思います。おっかなびっくりの私はよくわからないままswitchをあれこれ押して、あっという間に手持ちのコインがなくなってしまいました。ただ、「カジノ体験ができた」というのはとても楽しかった思い出になりました。
今回再訪したときには、同行者に半ば無理やり進めて同じような台を探してやらせました。最初はいやいや?やっていた同行者も当たってくると段々楽しそうになっていくのがわかりました。
今回の旅ではベネチアンだけでなく、ギャラクシー、シティオブドリームスそしてウィンパレスの各カジノをみてまわりました。それぞれ特徴があり、客層も違っていてなんとなく気に入ったカジノも見つけました。会員カードを作るとドリンクや小食がいただけるというのもなんだかお得感がありました。そういえば、どこかのカジノでは黒服が何やらカードを配っていましたが、今思えば会員カードだったのだ、と後で気づきました。
私たちは手持ちのお金もないし、日程も短かったのでそんなにどっぷり浸かるようなことにはなりませんでしたが、世の中には106億溶かしてしまう人もいるようで、依存していく気持ちは何となくわかる気がしました。
日本にもついに大阪にカジノを含むIRができるようですが、行ってみたいような怖いような複雑な気持ちです。体験としてはとても楽しかったことは事実です。皆さんも機会があれば覗いてみてください。