先日、万博のイタリア館を訪れた時のこと。
そこに展示されていたのは、世界の著名人が実際に書き込んだ、モレスキンのコレクションだった。画家、作家、デザイナー…さまざまな分野の才能ある人々が、思い思いのメモやスケッチ、アートを、たった一冊のノートに留めていた。
モレスキンは、ただのノートではなかった。そこには、アイデアが生まれ、思考が形になり、感情が刻まれる、まさに「創造の舞台」があった。
著名人たちの見事な書き込みを目にして、私は改めてモレスキンへの憧れを強くした。同時に、自分の「貧乏性」な一面も思い出す。
「こんな立派なノートに、どうでもいいメモを書いていいのだろうか?」
そんな完璧主義な思いから、私はこれまでモレスキンを手に取ったことがない。高価な「ほぼ日手帳」も、1日1ページを埋めなければというプレッシャーに負けて、結局は百均や無印のノートに落ち着いてしまった。
その一方で、かつての同僚がいつも**「裏紙」**にメモを取っていたことも鮮明に蘇る。彼の潔いまでの実用性に、当時は「せめてノートくらいは買ってほしい」と密かに思っていた。
私にとって、ノートは単なる紙の束ではなかった。そこには、仕事に対する敬意や、自分自身への投資という価値があった。だからこそ、彼の裏紙という選択には、最後まで共感できなかったのだ。
イタリア館で見たモレスキンは、有名人の作品集という顔も持っていた。だが同時に、彼らが気負うことなく、自由に創造のプロセスを書き留めていた証でもあった。
彼らにとって、モレスキンはきっと、最初から「特別なノート」だったわけではない。日々のアイデアやひらめきを、ただためらいなく書き留めるための、ごく自然な「相棒」だったのではないか。
万博で出会ったモレスキンのコレクションは、私の中にあった「ノートはこうあるべき」という固定観念を揺さぶった。
高価なノートに憧れる心も、百均や無印のノートで十分だと考える合理性も、どちらも私の一面だ。どちらか一つを選ぶ必要はない。
これからは、憧れを大切にしつつ、自分自身のスタイルで自由に書き留めていこうと思う。それは、時にモレスキンかもしれないし、裏紙かもしれない。
私たちの世代は、つい「完璧」を求めてしまいがちです。でも、無理に背伸びする必要はありません。
モノに溢れた時代だからこそ、本当に自分がいいと思ったもの、心惹かれるものにだけ、少しだけこだわってみる。そして、それ以外のものは、シンプルに、つつましく。
「つつましくも、こだわりは残して人生を謳歌する」
そう、モレスキンへの憧れを胸に抱きつつ、今日も私は、自由に、自分らしく書きたいことを綴っていこうと思います。