初めて軽井沢を訪れた時、正直、どうこの街を受け止めたらいいのか少し迷いました。林の中に静かに佇む別荘地や、シックに整った街並みは、観光地としての完成された姿を見せてくれます。おそらく色調や高さなどさまざまなとりきめがあるのでしょう。でもその美しさが自然なものというより、長い時間をかけて作られた「観光地としての顔」に思えて、いったい素顔はどんなだろう、そもそも素顔なんてあるのだろうかといったような、どこか不思議な感覚を抱いたのです。

例えば、いくつもある別荘地エリアの中には今では静まり返った場所もありました。かつてはたくさんの人が訪れ、賑やかだったのだろうと思いながらも、今はただひっそりとしている風景。しかし、完全に終わっているわけではなく、生活感がないながらも息づいているという不思議な街・・・。

 あるいは、その対照として、ガイドブックや道の標識にも出てくるようなランドマーク、明治時代からの建物がリニューアル工事中なのを見かけると、この街が観光地としての役割を守りながらも変化を続けていることが印象に残りました。軽井沢は「変わらない美しさ」を持つようでいて、実は時代とともに少しずつその姿を変えている場所なのだと気づかされます。


見る視点が広がると景色も変わる

今回の旅では、同行者の視点が私に新しい見え方を教えてくれました。その人は植物に関わる仕事をしていて、「この土の色が特徴的だよね」「あのビニルハウス、連棟だけど、雪にやられないんだろうか…何が育っているのかな」といった何気ない一言を口にしていました。私はそれまで土の色やハウスに注目したことなどなく、ただ「きれいだな」という程度の感想しか持っていなかったので、その人の視点にとても新鮮な気持ちを覚えました。

そうして一緒にいる人の目線や感覚を借りて見渡すと、軽井沢という街がただ観光地としての「顔」を持つだけではなく、そこに暮らす人々の営みや自然の恵みといったものが少しずつ見えてくる気がしました。それは地元の人たちが大切にしている「当たり前の日常」であり、それが軽井沢という場所の奥行きを生み出しているのだと気づかされました。


足元に広がる新しい発見

 こんな風に視点の大切さを感じたのは、いつかの春先に参加した「食べられる草」の観察会の影響です。地元の里山のふもとの植物を観察しながら採取してたべる。こんなできそうでできない体験をしたからこそ日常にも光を当ててみる大切さをしりました。実際、その時以来、雑草としか思っていなかった植物が「食べられるかもしれない」と思えるようになりました。

 今回の旅先でも視点の大切さに思いが行ったのはそういうつながりです。こうした過去の経験や興味が、旅先でも新しい発見をもたらしてくれることを改めて実感しました。観光地の華やかな部分だけでなく、足元や背景に目を向けることで、その場所との距離が少し縮まる気がします。


華やかさだけが魅力ではない

軽井沢を訪れる前、私は「地元」というとどこか華やかさに欠ける存在に感じていました。観光地のような整った魅力もなく、外から見ても特に発信したくなるような面白さはない、と思っていたのです。でも今回、軽井沢で感じたのは、華やかさだけが魅力ではないということでした。

軽井沢のように「観光地としての顔」を持ちながらも、そこに暮らす人々の日常や街の変化、そしてその背景にある歴史や営みに目を向けると、新しい魅力が見えてくる。そして、それは観光地でなくても、地元にも同じようにあるはずです。むしろ、誰かが見逃しているかもしれない「地元の良さ」を発信していくことにこそ、大きな意味があるのだと思うようになりました。


軽井沢の旅を通じて、「どんな場所でも新しい視点で見ることで、全く違うものに見える」ことを実感しました。そして、地元のような一見華やかさに欠ける場所にも、たくさんの発見や魅力が眠っているはずです。そんな良さを見つけて、これからもっと発信していきたいと思います。