いつまでも退かない人と、どう付き合えばいいのか
~60代はもう若造?“上が詰まった”超高齢社会での立ち位置~
かつて私が30代・40代だったころ、60歳になれば多くの人が定年を迎え、その後は地域の自治会長や名誉職といった「一歩引いた役割」につくのが当たり前でした。
いわば、“現役”を退いたあとの穏やかな社会参加。「禅定(ぜんじょう)」とか「勇退」なんて言葉が、ちゃんと生きていた時代です。
ところが今はどうでしょう。
80代でも堂々と中心ポジションを占め、「後進に譲る気配ゼロ」の人が、地域でも職場でも、ちらほら見られます。
それも、「そろそろ交代でもいいのでは…」と思うような状況でも、しっかりとポジションをキープ。
その下で控えている60代が、「まだまだ若造扱い」され、意見も通らず、ポストも回ってこない――。
いつの間にか、“上が詰まっている”状態が当たり前になりつつあるのが、今の超高齢社会です。
愛想を尽かした40代
私の地区にも70−80代が中心のまちづくりに参画して頑張っていた40代前半の青年がいます。しかし、いくら彼が新しい意見を言っても、老人たちが頭ごなしに否定し、「何もわかっていない」「今までのことを蔑ろにする」等々、尽く潰しにかかってしまい、とうとう彼は3年くらいして、「自分のやりたいことは他でやる」と、自ら既存組織を出て行ってしまいました。新たな人間関係を構築し、そちらで自分のやりたい自治会(のような活動)を今は伸び伸びとやっているようです。
私はその様子を数年見てきて、本当に腹立たしく感じていました。せっかく若い世代が参画しようとしても寄ってたかって潰す老人たち。「世代交代」「継承」という言葉はそこには全くありません。そのくせ「若いものは自治会の仕事をやりたがらない」などと苦言を言いつのります。育てるどころか、自分たちで「芽」を摘んでいるのに・・・。
なぜ「退かない」のか?
もちろん、80代でも元気に活動し、周囲を支えてくれている方々がいるのは事実です。
ただ中には、“引き際を見失った”まま、ずっと居座り続けているように見えるケースも。
その背景には、いくつかの理由が考えられます。
・「自分がいないと回らない」という思い込み
長年の経験から、「自分のやり方が一番うまくいく」と信じて疑わない。悪気はなくても、周囲を置き去りにしてしまうことも。
・“降り方”がわからない
役割を手放した経験がない人ほど、「いつ・どうやって引けばいいのか」がわからない。誰も教えてくれなかったから、降りることが怖い。
・承認欲求と“居場所”の問題
現役引退後、社会とのつながりが薄れるなかで、地域活動や組織のポジションが「最後の居場所」になってしまうケースも。
どう付き合えばいいのか?
正面からぶつかっても、大抵うまくいきません。むしろ「まだまだ青いな」と余計に上から見られてしまうリスクも。
そこで、私が心がけているのはこの3つのスタンスです。
① あえて「持ち上げて、任せてしまう」
「●●さんの判断ってやっぱり安心感ありますよね」と一度持ち上げておいて、実務は自分たちで回す。体面は保たせて、中身を引き取る作戦です。
② 距離を置いて“見切る”勇気を持つ
どうしても意見が通らない相手には、あえて深入りしない。“無理に変えようとしない”ことで、自分のエネルギーを守る方法もあります。
③ 自分が「退くべき時期」を今から考えておく
最終的に、私たちも“退かない側”になる可能性があります。
だからこそ、「どう退くか」も今からモデルとして意識しておくことが、未来の自分のためになるのです。
まとめ:退くことは、次世代へのバトン渡し
「退く」というのは、消えることでも、負けることでもありません。
むしろ、次の世代にバトンを渡し、自分の経験を“受け継がせる”行為でもあります。
でもそのためには、日頃から「どこで引くか」「誰に託すか」「どう見届けるか」を意識しておく必要があります。
もし今、「あの人、なんで退かないの?」とモヤモヤしているなら――
同時に、自分は“どうありたいか”を考えるチャンスかもしれません。
「退かない人とうまく付き合う」というのは、実は「未来の自分と向き合うこと」なのかもしれない。
そんなふうに、最近は思うのです。
私たちはいつか、今の「退かない人たち」と同じ立場になります。
だからこそ、今感じている違和感ややりづらさを、将来に活かすことができたら──。
若い世代が気持ちよく動けるように、次のバトンを渡せるように。
「退き際の美学」は、まだ死語にしないでおきたい。
私たち自身が、その新しいモデルを描く番なのかもしれません。