県外への遠征から帰ってきた日のことだ。
朝から出かけていて、帰宅した頃にはすっかり疲れていた。
帰り道ではケーキを食べ過ぎて胸焼けまでしている。
夕食も入らない。
そんな一日だった。
家に着いて、胃薬を飲もうとした。
その時である。
手が滑った。
胃薬の瓶が床に落ちた。
そして見事に割れた。
我が家の床はタイルである。
落ちたら助からない。
乾いた音がして、ガラスの破片が散らばった。
私は少しバツが悪かった。
一緒にいた子どももその様子を見ていたからだ。
ところが、
「大丈夫?」
でもなく、
「何やってるの」
でもなく、
「薬がガラス瓶なのは危ないね」
という反応だった。
確かにそうである。
なぜ胃薬はガラス瓶なのだろう。
軽くて割れない容器ではだめなのだろうか。
そんな話になった。
そういえば夫もよく物を落とす。
コップだったり皿だったり。
私より年上なので、こちらがハラハラすることもある。
しかし考えてみれば、私も人のことは言えなくなってきた。
今回だって、自分で落としている。
若い頃なら、
不注意だったな。
で終わったかもしれない。
でも最近は少し違う。
もちろん不注意もある。
ただ、それだけでもない気がする。
手先の感覚。
反応の速さ。
力の入り具合。
そういうものは、少しずつ変わっていく。
本人が気づかないくらいゆっくりと。
ところが生活のほうは変わらない。
薬はガラス瓶のまま。
床はタイルのまま。
高い棚もそのまま。
細かい文字もそのまま。
仕様は昔のままなのである。
変わっているのは人間のほうだ。
そう考えると、夫が物を落とすのも、私が薬瓶を割ったのも、ある意味では自然なことなのかもしれない。
帰りの洗車では、子どもに
「手伝ってよ!」
と少しきつく言われた。
お互い疲れていたのだと思う。
私も気が回らなかった。
ところが薬瓶を割った時には、妙に穏やかだった。
遠征が終わった安堵もあったのだろう。
それに、子どもも少しずつ現実を受け入れているのかもしれない。
親も年を取るのだという現実を。
もちろん、私はまだそんな年寄りではないと言いたい気持ちもある。
しかし床に散らばったガラス片を拾いながら、
それも少し苦しくなってきた。
たぶんこれからも何かを落とす。
夫も落とす。
もしかすると子どももいつか落とす。
そのたびに、
「気をつけて」
と言うのだろう。
そしてまた思うのである。
人間は少しずつ変わっていくのに、仕様のほうはなかなか変わらないものだな、と。

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