~ 山の麓のそば屋「彦兵衛」さんにて ~
平日の休みに「何しよう」と思ったとき、これまで行ったことのないお店を探検するのはどうかな、と思い立ちました。中高年になった今、今までスルーしてしまっていた扉の向こうを覗いてみたくなったのです。
何度も通って、通り過ぎてきた場所
この店の看板の前は、何度も通っていました。
通っている、というより、やり過ごしてきた、が正しいかもしれません。
この前、2週間くらい前でしょうか。ついにお店の前まで行きました。意外と看板から距離があり、奥まった場所にそのお店はありました。
鬱蒼としたとく山の麓。
昼間なのに、営業している店の気配が薄い。
建設会社の一角、と言われたほうが納得できるような場所で、
「ここです」と言われなければ、たぶんそのまま通り過ぎてしまうくらいのところにこのお店はありました。

「隠れ家」と呼ぶには、少し違う
いわゆる「隠れ家」という言葉を使うと、
急にトレンディになりすぎる気がするのです。
ここはもっと、
見えにくくて、判断材料が少ない場所なんです。
今日、私の「行こう」スイッチがついに入りました。
そばにたどり着くまでの回り道
『ふくいのそばびと』という本によれば、
この店の開店は三十年あまり前だそうです。
「ふくいのそばびと」とは、福井に根付くそば文化を国中に広めたい、という思いで綴られた本です。地元のテレビ局が発行しています。
店主は、蕎麦屋をする前はバーテンなどもしていたといいます。
福井県池田町のそばを食べて衝撃を受け、
この道に入った——そんな話も載っていました。
今日は、引き返さなかった
ところで、私、今日は、なぜか引き返さなかったのです。
開店時間11時半の少し前。店の前にたどり着きました。
すると、
いつの間にか集まっていた“訳知り顔”のおじさんたちが、
慣れた手つきで店に入っていくのです。
鍵を開けたのは誰だったのか、よくわからないくらい、自然に。
扉の前の、ほんの一瞬
知らないお店に入る時は、ほんの一瞬、時間が止まるような感覚があります。「意を決する」というと大袈裟ですが、しつらえをちょっと鑑賞したり。のれんがかかった直後のタイミングで入店しました。
言葉は少なく、距離はちょうどいい
松葉杖をてこてこ「こいで」カウンターに座りました。先人が当たり前のようにそうしたのでなんだかつられました。
しばらくすると、店主、
「お一人様ですか」
そう聞かれて、少しだけ意外に思いました。「常連が来るようなところなのかな」とちょっとだけ考えたり・・・。
「はい」
注文をしようときょろきょろしていると
「今、うかがいますね」
…絶妙なタイミングです。
さて。初めてのこのお店でのトライ。
天丼は決めていました。
だって、道に立ててある看板には「天丼が美味しい店」と書いてあるのですから。
でも。でも、蕎麦屋ですよ、おろしそばは外せない・・・。
初めてなので、勝手がわからない。量のこと、セットの内容・・・。
迷いに迷い、
「天丼とおろしそばを」と発声。
「・・・」
「セットですか」
やりとりが少し噛み合わないところで、
おかみさんが、さりげなく話をつないでくれました。どうやら、二つ食べる女性は少ないのでしょうか・・・。
「ご飯も食べたいんですよね」
セットだと天ぷらとお蕎麦、ごはんはなし、みたいですね
見られている、というより把握されている
店の人と言葉を交わしたのは、
それくらいでした。
それでも、
松葉杖の私に、必要なときにだけ声がかかる。
「どうされたんですか」
「はい、ひねりました」
過剰でもなく、放っておかれるわけでもない。
近すぎず、遠すぎず。
この距離感は、
たぶん意識して作れるものではないと思います。
静かなそば、熱い天ぷら
注文してから、しばらく待つ。
天ぷらを一つずつ揚げているらしく、
時間はゆっくり流れる。
こちらがそわそわした素振りをみせたのでしょうか
「今、やりますのでね」
せかせかした雰囲気が似合わないけれど、突き放した感じでもない店主。
そして。
待ちに待った「天丼とおろしそば」がでてきました。サラダと漬物付きです。

出てきたそばは、黒々として、静かな佇まい。
派手さはない。
腰があり、余計なことをしていない味。
池田町のそばに衝撃を受けた、
という話を思い出して、
なるほど、と思う。
天丼の天ぷらは、熱いうちに。
衣は軽く、野菜も、ちゃんと主役として存在している。
ゆっくり食べる昼も、悪くない
気づけば、食べ終わるまで一時間ほど。
急いでいる人には、たぶん向かない。
でも今日は、
扉の向こうをのぞくつもりで来たのだから、
このくらいがちょうどいい。
「知らない場所」では、もうない
店を出ると、
さっきまでの静けさが、
少しだけ背中に残っていた。
たぶんまた、
何度かは通り過ぎると思います。
それでも、もうここは
「知らない場所」ではなくなりました。


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