最近、世間を震撼させた事件が発生し、容疑者が逮捕されました。この報道を見ていて、容疑者の写真として、かつての卒業アルバムが切り取られ掲載されていたのを見て、漠然と疑問がわきました。
「なぜ本人の許可なく昔の写真を流せるの?」
このまま疑問で終わらせたくないので調べてみました。
結論:法律と「知る権利」のバランスで決まっていた
結論から言うと、これは**「公共の利害に関する事実」**として、個人の肖像権よりも「国民の知る権利」が優先されるという法的な考え方がベースにあるようです。
調べてわかった3つのポイント
肖像権は「絶対」ではない?
本来、勝手に写真を公開されるのを拒む権利は誰にでもあります。しかし、刑事事件の容疑者になった場合、「その人物が誰であるか」を報じることは、社会的な安全や関心事において「公益性がある」とみなされるのが現在の日本の通説のようです。
写真を提供した「第3者」の権利はどうなる?
「アルバムを渡した人にも責任があるのでは?」という点も気になりました。
- 所有権の行使: アルバムを持っている人が、それをメディアに貸したり見せたりすること自体は、自分の持ち物をどう扱うかという「所有権」の範囲内です。
- 肖像権侵害の肩代わり: 第三者が提供した結果、本人の肖像権を侵害したとしても、報道機関が「報じる価値がある」と判断して掲載するため、提供者が直接訴えられるケースは現実的にはほとんどないようです。
なぜ最近の顔ではなく「卒アル」なのか
SNSの写真は加工されていたり、本人確認が難しかったりします。一方、卒業アルバムは学校という公的機関の記録であり、「人違い(誤報)」を防ぐための最も確実な証拠として重宝されているという現実的な裏側があるようです。
今後、卒業アルバムは消えてしまうのか?
今回のことを調べていて感じたのは、「卒アルが事件報道のツールに使われるなら、最初から作らなければいい」という意見が出てくるのも自然な流れだということです。
実際、最近では以下のような変化が起きているようです。
- 掲載の任意選択: 全員強制ではなく、掲載を希望しない生徒は載せない。
- デジタル化とアクセス制限: 紙のアルバムではなく、パスワード付きのサイトで閲覧する。
- 制作の中止: 個人情報保護の観点から、集合写真のみにする、あるいはアルバム自体を廃止する学校も出始めています。
変わりゆく「情報の出しかた」
調べて感じた「公益性」と「個人のリスク」のギャップ
以前は「容疑者なのだから顔が出るのは当然」という空気が強かったように思います。しかし、調べてみると現代ではその「当然」が大きく揺らいでいることがわかりました。
報道機関が主張する「公益性(再発防止や情報提供)」は理解できる一方で、一度ネットに流れた情報は**「デジタルタトゥー」**として消えずに残ります。万が一、後から事実関係が覆ったとしても、失われた名誉を元に戻す仕組みは、今のネット社会にはまだ整っていません。この「一度出したら最後」という恐怖感が、私たちの「もやもや」の正体かもしれません。
行政でも進む「名簿の提供」への慎重な姿勢
この動きは、報道の世界だけでなく、私たちの身近な「行政」の現場でも顕著になっています。 これまで地域の行事や避難支援のために当たり前のように共有されていた「名簿」についても、現在は提供に極めて消極的になっています。
関連する背景:
容疑者の卒アル写真が「名簿(卒業アルバム)」から流出する現実を目の当たりにすれば、行政が「どこでどう使われるかわからない名簿を出すのはリスクだ」と判断するのは、同じ文脈の防衛反応と言えるでしょう。
「良かれと思って」が通用しない: 地域の安全という公益性があっても、「個人のプライバシーを守る」という原則が、今やあらゆる組織の最優先事項になっているようです。
「やめる方向」に向かう社会のこれから
慎重になりすぎた結果、行事が不便になったり、報道からリアリティが失われたりすることへの違和感もあります。しかし、以下のような変化は、もはや止まられない流れなのかもしれません。
「形に残さない」という選択: 卒業アルバムを廃止したり、名簿を作らずその都度同意を取ったりする「持たない管理」。
「匿名性」との共存: 何でもかんでも表に出すのではなく、必要な情報を、必要な範囲だけで共有する「情報の局地化」。
「もやもや」を抱えるのは、私たちがまさに「古い情報の常識」と「新しいプライバシーの価値観」の過渡期に生きているからではないでしょうか。

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