知事セクハラ報道で感じた違和感 ― 表現と言葉の距離について考える

暮らし・日常

前知事のセクハラ報道を前に、「被害者感情を尊重する」という正しい言葉に、なぜか心が追いつかない自分がいる。断定を避けながら、違和感や恐れ、男女共同参画との距離について考えた記録です。

 セクハラ報道を前に、「被害者感情を尊重する」という言葉に追いつけなかった

 年末年始にかけてショッキングな事実が明るみになりました。

知事のセクハラによる任期途中での辞任、第三者委員会による本事案に関する調査報告書の公表です。

新聞には、当事者間のメールのやり取りの一部が、詳細に掲載されています。

「極めて遺憾な内容」
「被害者感情を尊重する」

公的立場の人たちの言葉は、一様に整っています。
正しいと思います。
この事案が深刻であることも、疑ってはいません。

ただ、私はいま、
自分の感情が、その言葉に追いついていないことを確認してしまっています。

ここで、ひとつだけ、はっきり書いておきます。
以下に述べることは、
今回の事例が「上司と部下の恋愛」であったと断定するものでは、決してありません。

もちろん、事実関係を私は全く知りません。
当事者の内面も、関係の実相も、外部からは分からないです。
だから、安易な類型化や物語化は避けたいと思っています。

それでもなお、
この報道に接したとき、
私の中に漠然と浮かんできた違和感があったのです。

ここからは、今回の事例そのものではなく、
それを考える過程で私の中に浮かんだ一般論について書いてみたいと思います。

「対等な関係」とは

現在のセクハラ認定は、

  • 行為の内容
  • 立場の非対称性(権力差)
  • 拒否できない環境だったか
  • 当事者がどう受け止めたか

を重視します。

つまり、

  • 表面上は「親密」「長年の関係」に見えても
  • 権力を持つ側が上司等という立場であれば
  • 「対等な恋愛関係だった」とは認められにくい

というのが、今の基準です。

しかし、ここで私の最大の違和感です。

上司と部下の関係に限らず、
人と人との間には、必ず立場や力の差があります。

それが異性間であれば、
そこにさらに、身体的な差や、
社会の中で刷り込まれてきた恐れが重なります。

だからこそ私は、
この事例を「恋愛」と呼ぶことに、強い抵抗を感じる一方で、
社会が何かを説明しようとするとき、
無意識のうちに「関係性の物語」を求めてしまう自分にも気づいてしまったのです。

「対等な関係だった」という言葉が、なぜ後から脆くなるのか

制度は、人の感情を見ません
見るのは、立場、権限、年齢、影響力、失うものの差です
そして必ず、どこかに「非対称」を見つけてくるものです。

それが正義として機能する場面があることも、理解しています。
同時に、その枠組みだけでは説明しきれない
人間関係の複雑さが、切り落とされてしまう感覚も残ってしまうのです。

男女共同参画を支持していても、恐れが消えない理由

私は、男女共同参画を推進したいと思っていますし、そのための活動も微力ながらしています。
制度としての平等は、必要だと思います。

けれど、個人的な感覚として、
男性全般に対する「恐れ」があることも否定できない。

例えば

夜道は怖い。
密室は緊張する。
立場や力を持つ男性の前では、身体が先に身構える。

だから私の中では、
感覚としての「完全な男女平等」は、成立していないのです。

これは思想の問題ではなく、身体が覚えてしまった現実なのです。

「断り切れない関係」とは何か――恐れがどこかに残る関係

 断り切れない関係とは、
明確な脅しや暴力がある関係だけを指すのではないと思っています。

  • 空気を壊すことへの恐れ
  • 評価が下がるかもしれない不安
  • 逆上されるかもしれない予感
  • 身体的な危険への想像

そうした小さな恐れが、どこかに残っている関係のことだと思うのです。

女性支援に関わる立場として、声を上げることにためらいが生まれた理由

私は、女性支援の団体に関わっています。
だから今回の不祥事は、本来ならば
真っ先に糾弾すべき問題であることも、理解しています。

それでも、どこかに漂う
言葉にされない経緯や、関係性の非対称を思うと、
声高に断罪することに、ためらいが生まれるのです。

これは被害者を疑いたいからでは決してありません。
むしろ逆です。

支援の現場にいると、
声を上げることが力になる場面と同時に、
声を上げさせられることが、別の傷になる瞬間も見てしまうことがあります。

だから私は、
できればそっとしておきたい、という本音を抱えているのです。

「被害者感情を尊重する」は正しい。でも、モヤっとする

被害者感情を尊重する。
この言葉が必要であることは、間違いありません。

けれど、その言葉が
それ以上考えることを許さない「蓋」になってしまうとき、
私はどうしてもモヤっとしてしまうのです。

人の感情は、一色ではない。
関係性は、単線ではない。

その複雑さを感じ取ってしまった自分を、
なかったことにはできないのです。

書くことで、追いつこうとしている

新聞に掲載されたメールのやり取りを横目に、
自分の感情が追いついていないことを確認しました。

だから私は、全文に目を通す勇気をもてていません。

すぐに結論を出せません。
正しい言葉に、無理に自分を合わせられないのです。

これは、誰かを擁護する文章でも、
誰かを糾弾する文章でもありません。

ただ、
人間関係の複雑さを、一本の線で裁こうとするときに生まれる歪み
その前で立ち尽くしている、
一人の人間の記録です。

※本記事は、特定の事例や当事者を断定・評価することを目的としたものではありません。
読者の方それぞれの感じ方を尊重しつつ、個人や立場への攻撃的な表現はお控えいただければ幸いです。

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