職場の“汚い冷蔵庫”と、神経質な私の距離感


冷蔵庫の扉を開けた瞬間、霜とカビが目に入った。
そのとき私は、「見なかったことにできる人間」と「できない人間」の境界は、こういう小さな瞬間に現れるのだと思った。
職場には、そういう境界線が静かに転がっている。

職場の冷蔵庫というものは、なぜか静かに荒れていく。
霜が厚く張りつき、奥にはいつのものか分からない食品があり、時々、見なかったことにしたくなるようなカビに出会う。

誰かが困っているわけでもなく、かといって誰かが管理しているわけでもない。そういう状態が、何となく続いている。

最新式の機種しか知らない年代層からしたら「なんのこと?」となるだろうが、残念ながら、わが職場にあるものは「昭和からそこに鎮座している」かのような代物である。


私はこういうものが少し苦手だ。見てしまうと気になってしまうし、気になってしまうと放っておけない。けれど同時に、それを自分の役割にしてしまうことにも、どこか違和感がある。

気づいた人がやる。
その言葉は便利だが、静かに偏りを生む。
最初は小さな「ついで」だったはずの掃除が、いつの間にか「その人がやるもの」になっていくことがある。

そして不思議なことに、それは誰にも明確には認識されない。感謝もなければ、業務としての位置づけもない。ただ、少しずつ“当たり前”だけが積み重なっていく。
それはたぶん、悪意のない構造なのだと思う。

あるとき私は、その冷蔵庫の霜を取った。
電源を落とし、水浸しにならないように時間をみはからいながら、ただ目の前の状態を整えた。それだけのことだ。誰かに頼まれたわけでもないし、評価を期待したわけでもない。


けれど作業を終えたあとで、ふと考えた。
これは“仕事”なのだろうか、それとも“気づいてしまった人の後始末”なのだろうか、と。

職場には、お茶を出すと感謝される仕事と、掃除をしてもほとんど気づかれない仕事がある。同じように時間を使い、同じように空間を整えているのに、その見え方は驚くほど違う。
そして私は、そのどちらかというと後者に寄りやすい。
見えない仕事は、消えているのではない。ただ、見えにくいだけだ。そう頭では分かっていても、ときどきその静けさが、自分の存在まで薄めてしまうように感じることがある。

けれど最近になって、少しだけ考え方が変わってきた。
すべてを背負う必要はないのだ、と。
冷蔵庫が汚れていれば、自分が使う前に軽く整える。それで十分な場面は多い。それ以上を「自分の責任」として抱え込まなくても、世界は案外そのまま回っていく。
重要なのは、きれいにすることそのものではなく、「自分が気持ちよく使える状態を確保すること」なのかもしれない。

神経質であることは、必ずしも生きづらさだけを生むわけではない。ただ、それが“役割の固定”につながると、少しだけ息苦しくなる。


だから私は今、少しだけ距離を取ることにしている。
気づいたら整える。
でも、それ以上は引き受けない。
そのくらいの関係で、職場の冷蔵庫と付き合っていくのが、たぶんちょうどいいのだと思う。

「なぜ同僚は、こんな汚い冷蔵庫でも平気でいられるの?」

とは考えないようにしよう・・・。

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