――「一万回ダメでも一万一回目」に、今は素直に感動できない私
「鋼のメンタル」という言葉がある。
何度失敗してもへこたれない。
人に何を言われても動じない。
断られても、「じゃあ次」と立ち上がる。
一方で、「豆腐メンタル」という言葉もある。
ちょっとしたことで傷つく。
否定されると引きずる。
一度うまくいかないと、「もう無理かもしれない」と思ってしまう。
私は、どちらかといえば後者だと思う。
たとえば、何かをやろうとして、別々のことで2回、3回と断られたら、かなり心が折れる。
「今回はダメだった」
と、頭ではわかっている。
それでも、
「私には向いていないのかもしれない」
「もうやめたほうがいいのかな」
「これ以上やっても仕方ないんじゃないか」
と、だんだん話が大きくなっていく。
そんな自分と比べると、世の中にはものすごい人がいる。
50社断られても、まだ行く
俳優の鈴木亮平さんが、俳優になりたくて上京し、50社ほどに電話をかけて断られ続けた、という話がある。
会社の下までバイクで行って、「今、下にいます」と伝え、面会までこぎつけたこともあったという。
それでも、なかなか日の目を見なかった。
50社。
私だったらどうだろう。
2、3回、違うところで断られた時点で、
「もういいかな」
となってしまう気がする。
鈴木亮平さんは鋼のメンタルなのだろうか。
私は豆腐なのだろうか。
でも、少し考えてみると、どうもそれだけではないような気がしてきた。
鋼の人は、傷つかないのだろうか
「鋼のメンタル」というと、何を言われても傷つかない人を想像する。
でも、本当はそうではないのかもしれない。
断られれば傷つく。
悔しいし、恥ずかしいし、不安にもなる。
ただ、
「断られた」
という事実と、
「自分はダメだ」
という自己評価を、切り離すことができる。
「この会社には断られた。では次」
と考えられる。
だから、また動ける。
一方で、
「この会社に断られた」
↓
「自分には才能がない」
↓
「私はこういうことができない人間なんだ」
と進んでしまうと、次の一歩が急に重くなる。
もしかすると、「鋼」と「豆腐」の違いは、傷つくかどうかではなく、
傷ついたあと、もう一度行動できるかどうか
なのかもしれない。
昔は「一万一回目」に感動した
ここで、昔とても好きだった歌を思い出す。
ドリカムの歌に、
「一万回ダメでも、一万一回目はうまくいくかもしれない」
という意味の歌詞がある。
若い頃の私は、この言葉に素直に感動した。
そうだ。
何度ダメでも、諦めなければいい。
一万回ダメでも、一万一回目がある。
なんて力強い言葉なんだろう。
ところが、今は少し違う。
「……いや、その一万回、誰がやるの?」
と思ってしまう。
我ながら、夢がない。
でも、これには年齢だけではなく、別の問題があると思う。
「諦めない」には、資源が必要だ
何度も挑戦するためには、何が必要だろう。
気力。
もちろんそれもある。
でも、それだけではない。
時間がいる。
お金もいる。
体力もいる。
失敗しても生活が破綻しない余裕もいる。
仕事をしている人なら、挑戦するための時間をどうやって作るのかという問題もある。
家族がいれば、自分だけの都合で仕事を辞めたり、何年も遠回りしたりすることが難しい場合もある。
つまり、
「諦めない」という精神論の前に、「何回挑戦できるのか」という現実がある。
たとえば、俳優になりたい人が50社に電話をかける。
50回断られても、51社目に電話をかける。
それは確かに、本人の勇気や粘り強さの結果だろう。
でも同時に、
50回挑戦できるだけの時間や生活条件があった
ということも無視できない。
50回挑戦すること自体が、誰にでもできるわけではない。
経済的に働かなければならない人もいる。
家族を支えなければならない人もいる。
一度の失敗で、大きなお金を失ってしまう人もいる。
だから、「諦めない人は強い」とだけ言ってしまうと、少し違う気がする。
若い人には「時間」という資本がある
若い頃には、本人があまり意識していない資産がある。
「時間」だ。
失敗しても、やり直す時間がある。
転職してもいい。
遠回りしてもいい。
何年か試して、うまくいかなければ別の道に行くこともできる。
もちろん、若い人だって、それぞれ事情を抱えている。
だから「若者は恵まれている」と単純に言いたいわけではない。
ただ、中高年になると、
「これをやって、もし3年たったら?」
「その頃、私は何歳?」
「その時間を使って、本当にいいの?」
と考えるようになる。
失敗そのものよりも、
失敗に使う時間の大きさ
が気になってくるのだ。
「夢がなくなった」のではなく、「夢に使える資源」が変わった
中高年になって、
「昔のような大きな夢が持てない」
と感じる人は少なくないと思う。
でも、それを「夢を失った」と片づけてしまっていいのだろうか。
若い頃と同じように、
仕事を辞めて、
大きなお金を使って、
何年もかけて、
何度失敗しても挑戦する。
そんなことが難しくなっただけかもしれない。
夢がなくなったのではなく、
夢に投入できる資源が変わった。
私は、そんなふうにも考えたい。
だから、中高年に「夢を持とう」と言われると、少し違和感がある。
夢を持つこと自体はいい。
でも、
「大きな夢を持って、諦めずに何度でも挑戦しよう」
と言われると、
「いや、そんなに何度もできません」
と思ってしまう。
では、鋼と豆腐の間には何があるのか
では、鋼のメンタルになれない私は、どうすればいいのだろう。
豆腐のままでいい。
私は最近、そんなふうに思う。
豆腐は、ぶつかったら崩れる。
でも、崩れたら終わり、ではない。
崩れたなら、
「これはちょっと無理だった」
と認めればいい。
そして、
「では、別の方法はないか」
と考える。
10回やる必要はない。
100回やる必要もない。
ましてや、一万回やらなくてもいい。
自分の時間とお金と体力を考えて、
「あと一回ならやってみよう」
と思えるなら、その一回をやってみる。
それでダメなら、やめてもいい。
方向を変えてもいい。
しばらく休んでもいい。
それでも、あとになって「やっぱりもう一度」と思ったら、そのときまたやればいい。
「諦めない」と「執着する」は違う
ここも、年齢を重ねてわかってきたことかもしれない。
若い頃は、
「諦めないこと=正しいこと」
だと思っていた。
でも今は、
諦めないことと、同じことに執着し続けることは違う
と思う。
一度断られた。
では、別の方法を試す。
それでもダメだった。
では、いったんやめる。
半年後に状況が変わったら、もう一度考える。
それも「諦めない」の一つではないだろうか。
「絶対にやり抜く」だけが、挑戦ではない。
自分の人生の中で、もう一度可能性を開ける状態を残しておく。
それも立派な選択だと思う。
一万一回目まで行けなくてもいい
昔、あんなに感動した「一万一回目」。
今の私は、一万一回目まで走り続けられる自信はない。
でも、だからといって、
「もう何も挑戦しない」
と決める必要もない。
10回目かもしれない。
5回目かもしれない。
もしかしたら3回目で方向を変えるかもしれない。
大事なのは、
「3回失敗したから、私はダメだ」
と、人生全体の結論を出してしまわないことなのだと思う。
「この方法はダメだった」
「この相手には通じなかった」
「今の私には、このやり方は負担が大きすぎた」
そこまでで止めてもいい。
そして、いつか余裕ができたら、別の方法を試してみる。
それでいい。
中高年に必要なのは、「夢」より「次の一回」かもしれない
「夢を持とう」と言われると、ちょっと疲れる。
大きな目標を持って。
諦めないで。
何度でも挑戦して。
そう言われると、
「いや、こちらにはこちらの事情があるんですよ」
と言いたくなる。
でも、
「ちょっとやってみたいことはない?」
なら、少し違う。
人生を賭けなくてもいい。
仕事を辞めなくてもいい。
大金を使わなくてもいい。
小さく試してみる。
うまくいかなければ、やめる。
また気が向いたら、別の方法でやってみる。
そのくらいでいい。
鋼のメンタルになれなくてもいい。
豆腐メンタルでもいい。
ただ、崩れた豆腐を見て、
「私はもうダメだ」
と人生の結論を出さないこと。
そして、もし少し元気が戻ってきたら、
「もう一回だけやってみようか」
と思えたら、それで十分なのではないだろうか。
一万一回目まで行かなくてもいい。
でも、
「次の一回」を完全に捨てなくてもいい。
昔は「諦めないこと」に勇気をもらった。
今は、
「諦めてもいい。でも、可能性まで捨てなくていい」
という言葉のほうが、少し自分に近い気がしている。

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