「私には価値がない」まで落ち込んだとき、考えてみたいこと
数か月に一度、ものすごく落ち込むことがあります。きっかけはいつも具体的な出来事。今回は仕事でした。
仕事がうまくいかない、職場になじめない、必要とされていない気がする——そんなことが重なると、いつの間にか「私は何のために生きているんだろう」というところまで落ちてしまう。普段の自分なら「そこまで考えることじゃない」と分かっているのに、いったん落ち込むと頭と感情が別々に動いてしまいます。
そして今回、改めて思いました。これは単に「仕事が嫌だから」ではなく、ここ数年の「選ばれない」「戻れない」「居場所がない」という出来事を一つ一つ処理できず、いつの間にか「自分そのものを否定された」という一つの物語にしてしまっているのではないか、と。そこで、昔から知っていたアドラー心理学を、もう一度自分に使ってみることにしました。
「嫌われる勇気」がブームになったとき
『嫌われる勇気』が流行したのは、私がアドラー心理学を学んでからかなり後のことでした。世間で急に広まったとき「とうとうここまで知られるようになったんだ」と少し懐かしい気持ちになったのを覚えています。それくらい以前から自分の中にあった考え方でした。ところが、「知っていること」と「落ち込んでいるときに使えること」はまったく別だと、今回身をもって思い知りました。
今回の引き金は「仕事」だった
私はある意味「リベンジ」のような気持ちで今の仕事に就きました。以前いた職域にもう一度戻り、今度こそ自分がやってきたことを証明したい——そんな気持ちがどこかにあったのだと思います。
ただ落ち着いて周りを見る余裕が出てくると、この職場独特の風土が見えてきました。先任者の存在が非常に大きく、リーダーの指示に従うことが重視され、机には雑用が積まれ、場当たり的に指示が来る。全体像の説明がないまま役割が割り振られ、うまくいかなければ「来年はあれも」と新しい役割が増える。「トライアンドエラーじゃあるまいし」と思ってしまいます。誰かに露骨に排除されているわけでも「必要ない」と言われたわけでもないのに、強い疎外感を覚え、それが以前からの傷に触れてしまうのです。
「なじめない」が、なぜ「価値がない」になるのか
冷静に考えれば「私は今の職場の風土になじめない」、ただそれだけです。ところが落ち込んでいると、そこから一気に飛躍します。
「うまく立ち回れない」→「能力がないのでは」→「必要とされていない」→「どこへ行っても認められない」→「私には価値がない」→「生きていても仕方がない」
ここには大きな論理の飛躍があります。「全体説明なしに仕事を割り振る」のは組織の仕事の進め方の問題であり、「先任者中心」はその職場の文化、「場当たり的な指示」はマネジメントの問題です。それなのに全部を自分の能力や人間としての価値の問題に変換してしまう。アドラー的に考えるなら、まずここを切り分ける必要があります。
今の仕事だけではなかった
改めて考えると、私は最近「自分から手を挙げたのに選ばれなかった」という経験を何度かしています。
以前、ある公的な役割に自分から手を挙げ、面接でかなり個人的な自己開示もしました。その場では「推薦書を書く」とも言われたのに、最終的に推薦には至らず、通知はショートメール一本でした。人数や地域配置、男女比などのバランスで決まるものだと頭では分かっていても、「あれだけ自分を開いて話したのに、最後はこんなにあっさり終わるのか」「私は、そんなに簡単に扱っていい存在だったのだろうか」と、かなり傷つきました。
そしてもう一つ、以前の職場では再任されませんでした。だからこそ今の仕事には「リベンジ」の意味があったのだと思います。その後、後任者が8月で退職しましたが、その事実だけで「だから私のほうが正しかった」とは言えません。ただ一つ分かったのは、「再任されなかった」という事実から「私には能力がなかった」と結論づける必要はなかった、ということです。人事は人事、組織の判断は組織の判断であって、そこに自分の人間としての価値まで乗せる必要はありません。
何度も「あなたではない」と言われると、人は疲れる
一つ一つはまったく違う出来事なのに、心はそれをまとめてしまいます。「私はどこへ行っても選ばれない」「必要とされない人間なのではないか」と。人間は一度の不採用ではそう簡単には壊れないかもしれませんが、こうした経験が重なると、それぞれが互いを補強し始め、一つの出来事ではなく「私は選ばれない人間だ」という自分自身についての物語になってしまいます。
アドラーの「課題の分離」で考えてみる
アドラー心理学の基本の一つが「課題の分離」——「それは誰の課題なのか」と考えることです。
・誰を採用/推薦するかは、採用/推薦する側の課題
・職場をどんな風土にするかは、組織の課題
・上司や同僚がどう評価するかは、その人の課題
一方、自分の課題は、その仕事に手を挙げるか、面接で誠実に伝えるか、与えられた仕事にどう取り組むか、分からないことをどう確認するか——そこまでです。私はそこまではやりました。その先の「選ぶ」という行為は、私には決められません。だから「選ばれなかった」ことと「私には価値がない」ことは、本来まったく別の話なのです。
「選ばれなかった」と「選ばれない人間」は違う
「私は選ばれなかった」は事実。「私は選ばれない人間だ」は、その出来事から自分で作った自己評価にすぎません。しかもこの自己評価には無理があります。私は仕事に応募し、公的な役割にも手を挙げ、面接に行き、自分のことを話し、新しい環境にも飛び込んできました。少なくとも「やってみたい」と思った場所には、自分から手を挙げてきたのです。結果だけを見て「私は選ばれない人間だ」と自分を定義するのは、やはり違うのではないか。
承認欲求というより「所属」の問題
「他人から認められたいだけでは」と考えることもできますが、私の場合はそれだけではない気がします。「役に立てると思った場所に自分から手を挙げているのに、なぜ何度も『あなたではない』と言われるのか」という感覚——これは承認欲求というより「所属」の問題に近いのかもしれません。人は「自分はここにいていい」と感じられることを必要とします。
ここで分けて考えたいのは、所属していることと認められていることは違う、ということです。私は現実にその組織の一員で、仕事も与えられています。それなのに「必要とされている」という感覚が弱くて苦しい。でも「認められなければ所属している意味がない」と考える必要はありません。職場にはリーダーシップを発揮する人、調整する人、黙々と仕事をする人、細かいところに気づく人など様々なタイプがいて、組織に必要なのは必ずしも一番声が大きい人だけではない。「主流のタイプ」でないからといって、自分の価値がなくなるわけではないのです。
「リベンジ」を目的にしない
今の私にとって一番大きいのはここかもしれません。もう仕事を「リベンジ」の舞台にしない。前の職場に勝つ必要も、今の職場で証明する必要も、誰かに「あなたが必要です」と言わせる必要もありません。もちろん仕事はきちんとやります。でも、仕事の評価と自分の人間としての価値を、同じものにしない。
アドラーの「目的論」を自分に使ってみる
過去の出来事だけを原因として今を説明するのではなく、「今の自分は何を目的としているのか」から考えてみる。「なぜこんなに過去の評価にこだわるのだろう」「何を証明したいのだろう」「誰に認められたら満足するのだろう」——考えていくと「自分の価値を証明したい」に行き着きますが、これには終わりがありません。一度認められても、また次の評価が必要になる。他人の承認を人生の目的にしてしまうと、自分の人生なのに自分では採点できなくなる。これはかなり苦しい生き方です。
中高年になると「評価されること」が人生そのものに見えてくる
若い頃なら「次を探そう」と選択肢を比較的取りやすいものですが、年齢を重ねるとそう簡単ではありません。積み上げてきたキャリア、収入、「今さら新人にはなれない」という感覚。そして「これまでの人生で自分は何をやってきたのだろう」という問いが、仕事上のちょっとした出来事をきっかけに突然顔を出す。だから中高年の「仕事で傷つく」は、単なる仕事上の出来事では終わらないことがあるのです。
「自己肯定感を上げる」だけでは足りない
自己肯定感は褒められれば上がり、失敗すれば下がる。落ち込んでいるときに「いつも自分を肯定しましょう」と言われても難しい。むしろ必要なのは「自信がなくても、自分で決める」ことなのではないでしょうか。「今日はここまでやる」「これは私一人の責任ではない」「この職場に残る/別の働き方を探す」——こうしたことを自分で決める。結果がどうなるかは分かりませんが、決定権を少しずつ自分の手に戻していく。それが自分の人生を取り戻すことなのだと思います。
また、アドラーの共同体感覚にある「貢献感」も、大きな成果でなくていい——「今日はこの仕事を終えた」「一人に説明できた」「一つ改善した」、それくらいで十分です。誰かに拍手されなくても、自分が自分の行動に意味を見つけられれば、他人の評価から少しずつ自由になれます。
「傷つかない人」になる必要はない
「他人の評価なんて気にするな」「課題を分離すればいい」——そんなに簡単にはいきません。傷つくものは傷つきます。自分から手を挙げ、勇気を出して自分を開き、それなのに選ばれなかった。悲しいし、腹も立つし、惨めにもなる。それは当然です。アドラー的に生きるというのは「傷つかない人になること」ではなく、「傷ついた結果、自分で自分を否定するところまで行かないこと」なのではないでしょうか。「私は傷ついた」「選ばれなかった」ここまではいい。でも「だから価値のない人間だ」だけは、いったん止める。そこには自分で介入できる余地があります。
私に必要なのは「選ばれる勇気」ではなく「手を挙げる勇気」
私は何度か選ばれなかった。でも同時に、何度も自分から手を挙げてきました。やってみたい、役に立ちたい、新しい場所に行ってみたいと思って。つまり私が失ってはいけないのは「選ばれること」ではなく、自分から動く力なのではないか。選ばれるかどうかは相手の課題、手を挙げるかどうかは自分の課題です。だから「選ばれる勇気」ではなく「手を挙げる勇気」を持っていたい。選ばれないことを恐れて何もしなくなる必要はなく、逆に選ばれるためだけに自分を作り変える必要もありません。
もう一度、人生の主語を自分に戻す
元の職場に戻れない。今の職場にもなじめないところがある。手を挙げた役割に選ばれなかった。時々ひどく落ち込む。これらは全部事実です。でも「だから私は価値がない」は事実ではなく、私が出来事に付け加えた意味にすぎません。だったら、その意味を少し変えることもできる。
「認められなかった」ではなく「自分に合う働き方をまだ探している」でもいい。「なじめない」ではなく「この組織とは違う仕事の仕方をする人間なのかもしれない」でもいい。無理にポジティブになる必要はなく、ただ自分を傷つける解釈だけを唯一の真実にしない——それくらいから始めてもいいのだと思います。
過去を消すことはできません。傷ついた経験も、選ばれなかったという事実も消えない。でも、それらに「これからの自分の価値」まで決めさせる必要はないのです。
それでも、落ち込んでしまった日のために
最後に、ものすごく落ち込んだ日のための自分用ルールです。
- 重大な人生の決断をしない(「辞める」「もう無駄だ」と思った日は結論を出さない)
- 事実と解釈を分けて書く
- 「これは誰の課題?」と考える
- 「私は何をしたかったのか」に戻る
- 今日できることを一つだけやる
- 仕事以外の自分に戻る
そしてもう一つ、「今は落ち込みすぎている」と自覚すること。落ち込んでいるときの自分が出す「人生の結論」は、必ずしも信頼できません。
まとめ——「選ばれなかった私」から「それでも自分で選ぶ私」へ
何度も「あなたではない」と言われると、人は疲れます。でも「選ばれなかった」ことと「価値がない」ことは違います。「その場所に合わなかった」ことと「どこにも居場所がない」ことも違います。「他人に選ばれなかった」ことと「自分で人生を選べない」ことも違います。
アドラーを知っているからといって傷つかなくなるわけではありません。むしろ落ち込んだときにこそ、その考え方を生活に戻してみる。「これは誰の課題なのか」「私は本当は何をしたかったのか」「事実と解釈が混ざっていないか」「誰かに認められるためだけに生きていないか」——そして「これから私はどうしたいのか」と考える。
私は、もう「自分の価値を証明するため」に働くのはやめようと思います。それよりも、やりたいと思ったらまた手を挙げる。選ばれるかどうかはその先の話で、結果を自分の価値にまで広げない。そして仕事が終わったら、自分の人生に戻る。それでいいのだと思います。
人生の後半戦だからこそ、「私は私の人生で何を選ぶのか」という問いを、もう一度自分の手に取り戻してみたいと思います。
なお、これは「考え方を変えれば全部解決する」という話ではありません
私自身、数か月に一度「生きていても価値がない」と感じるほど深く落ち込むことがあります。そこまでの落ち込みを、アドラー心理学だけで解決しようとは思っていません。考え方を整理することと、心の状態そのものをケアすることは別の問題だからです。もし「消えたい」「死にたい」「自分を傷つけそう」という感覚が強くなったり、何度も繰り返したりするなら、信頼できる人に話すことや、医療機関・相談機関につながることも、自分の課題を引き受ける一つの方法だと思っています。少し元気が戻ったら、また自分で考える。「私は、これから何を選ぶ?」——そこから、もう一度始めればいいのだと思います。

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